
1999年、当時、近畿大学演劇・芸能専攻に在学中だった柳沼昭徳(劇作・演出)を中心とするメンバーによって設立。以降、京都を中心に、大阪・東京で公演活動を行う。
叙情的なセリフと繊細な演出で、現代人とその社会が抱える暗部をモチーフに舞台化する。
「演劇(舞台)でしか表現できない作品」「世代・趣味趣向を超えて心に訴えかける作品」を作品作りのポリシーに掲げ、多作を消費的に発表するのではなく、一つのコンセプト・題材に対し、中長期的に様々な角度からのアプローチを試みた連作を発表する活動形態をとっている。
京都の四条河原町の地下道で床にこびりついた黒いシミを、コテのようなものでこそいでいる清掃係の人を見かけました。
驚いたのはそれまでただの床の黒いシミだと思っていた汚れが、吐き捨てられたガムだったということ。
私の足下を見るとそこにもまた、あらゆる汚れを吸収しきった直径5センチほどの真っ黒に変色したガムが、影のごとく点在していました。
公共マナー云々もさることながら、その地下道の床に広がるシミの群のすべてを誰かが咀嚼し、吐き出したものと考えると、それまで無機質で小汚いだけの地下道が、ガムのシミによって温度を持ちはじめたような、無数の呼吸が聞こえてくるような、そんな気がしました。生々しい、うすら寒い感触でした。
私たちの創る作品の多くは、明確な希望や主張といったものは描かれていません。
むしろこの四条河原町地下道のガムのシミのような、ささいでネガティブなものに目を向けたものを多く作っています。しかし、世界から無視、またはアカンとされている人やモノを題材として扱い、いつもとは違った視点で見てみることで、新しい価値が見いだされ、関係が生まれ、やがて希望が生まれるはずだ、と考えています。
そして私たちが演劇の創り手である以上、その新しい価値は舞台と観客である皆さんとの間でなされる「対話」によって見いだすべきだと考えています。
私たちが追い求めるのは言葉なき対話。舞台は多くのセリフで満たされることでしょう。しかし、セリフとセリフの間にある呼吸や、ふとした表情にこそ、語りたい本当の言葉があります。
川底の泥のように、普段は動かないけれど、大きな流れがおこれば暴れ、沸き立つ。
私たちの舞台作品をご覧いただいた皆さんの、日常生活の中で埋もれている感覚や感情、そして記憶を沸き立たせ、そこに光を射てることのできる、そんな作品を私たちは目指しています。
-漂泊の家『八月、鳩は還るか』公演チラシより